連載 「保育を知ろう、保育を語ろう」

〜発達ということ〜

折々の保育風景を点描しながら当園の保育や保育の考え方を紹介します。
できるだけ、どうしてこのような保育をしているのか、その営みの意味は何か、それが子どもにどんな意味があるのか、ということをお伝えできればと思います。
(園長 倉掛秀人)


園だより2月号「巻頭言」より
2019/01/25

言葉が飛び交うための時間と場所

「人類を増やすためだよ」

 ご存じの通り、昨年春から一年間、映画制作のためにプロのカメラが入っていますが、仮のタイトルは「こども会議」です。そこで定期的に年長さん中心にミーティングをやっています。先日1月15日のミーティング。この言葉は、柿澤先生の「なんで(なんのために)生まれてきたと思う?」という投げかけに対して出てきました。すいすいの男の子です。どこから、そういう発想がくるのか、どんな体験が彼にそんな考えを導き出すのか、それまでの成り行きを知りたくなります。

 こども会議のテーマは、生まれること、家族、子育て、生きる、死ぬ、ルール、友だち、気持ち、自然・科学、不思議な行動の理由、もっと楽しい園にするにはどうしたらいい?など、オールジャンルで垣根はありません。こうお伝えすると、こんなことまで語り合ったりできるのかと思われるかもしれませんが、結構、子どもたちはすごいです。

 友だちの話を聞いて、ほかの友だちが話し出す。その話から「自分も」と、また言いたいことが噴き出してきます。テーマによっては、何人もが言わずにはいられない、とばかりに盛り上がるようです。

 その様子を聞いていると、ここにも子どもたちの「再現」があるんだなと気づきます。何度か巻頭言でお伝えしていますが、人間というは、体験したことをもう一度味わいたいから、それを目の前にもう一回露わにしたい、という衝動に動かされています。これを「リ・プレゼンテーション」(再演、再現)といいます。一般には「模倣している」といういい方になっているのですが、実は、ごっこ遊びだけではなく、言葉も同じ。このような抽象的なテーマでも、自分の中に抱え込んでいる記憶やイメージが言葉になって、ポップコーンのように弾けて飛び出してくるんですね。

 ということは、先に再現したくなるような体験が豊かなほどいい。「人類を増やすため」なんて知識を得た体験は、もっとほかの知識とつながっているはずです。地球、動物、人間。好奇心を掻き立てる知識が、いっぱいつながっていそうです。そして、その一方で聞くこと、話すことにも、豊かな環境が必要だということが、よくわかりました。話しやすい場所、語りを保障した空間、これから自由に言い合って、言葉を寄り添わせ合っていいんだよという、時間と場所です。これは目に見えないゾーンですが、そういう機会もきちんと保障してあげたいと思いました。


園だより1月号「巻頭言」より
2018/12/25

子ども主体 カメ主体

 新しい年が来ることを考えていたら、あるドラマのシーンを思い出しました。少年とおじいさんの会話です。ある日、少年が森を歩いていたら、カメをみつけました。
 「おじいちゃん、カメがいた」「かめ?誰かがおいていったか」「大丈夫かな。ぜんぜん動かない。おじいちゃん、ぼくが連れて帰ってもいい?」
 この少年の質問に対して、おじいさんは次のようにいうのですが、その返事を聞いて「あ、これは見守る保育だ」と思ったのです。このシーンを見たのがきっかけで、このドラマを真剣に見始めました。おじいさんの返事はこうでした。

       「カメは、どうしたいのかな?」

 すると、少年はしばらく考えて「カメに聞いてくる」といって外へ飛び出していきました。おじいさん役は舞踏家の田中泯。この少年が大きくなった青年を高橋一世が演じました。『僕たちは軌跡でできている』というドラマです。

 私がどうして「見守る保育だ」と思ったのかは、もうお分かりだと思います。保育をしているのは、この少年です。カメが保育をされていることになります。ですから、子ども主体ならぬ、カメ主体です。カメは何をしたいのか、カメは何を望んでいるのか、それを知ろうとするところから、保育は始まります。もちろん、この場合は保育ではなく「飼育」という言葉に変わりますが、本質は同じです。

 ケアもこの原理で働きます。なにを欲しているのかを尋ねに行くことが、ケアすること、配慮することの本質だからです。ドラマでは、石が敷かれた水槽のなかで歩いているカメを、少年がのぞき込んでいるシーンにかわりましたが、半分に割られた半円形の植木鉢を、少年がそっと置いています。カメの隠れ家です。このような環境を用意したところに、こんなことをカメは望んでいるに違いないという、少年の想像力ややさしさが表れています。

 ここには少年の意図があります。元気に育ってほしいという願いもあります。このように環境を通して引き出される力が教育ですが、カメは大きくなっても、この隠れ家に頭を突っ込んで寝ます。

 これと同じようなことが、こども園でもいっぱい起きていますよね。カメではありませんが、アリ、ダンゴムシ、カエル、メダカ、カタツムリ、カブトムシ、サワガニ、どんぐりの中にいた虫、コオロギ、スズムシ、カマキリ。果ては、恐竜の足跡をみつけている子もいます。<生き物たちは、どうしたいと思っているんだろう>。そんなことを真剣に考えることができる子ども時代は、ほんとに素敵だなあと思います。大人になっても、変えたくない心がここにあると感じます。今年もよろしくお願いします。


園だより12月号「巻頭言」より
2018/11/29

人生の節目 1歳の節目

 今年もあと1か月。卒園や進級まであと4か月。そしてもう一つ、平成もあと5か月となりました。なんだかカウントダウンを始めると、時間がぎゅっと、詰まった感じがしてきて、毎日を大切に過ごそうと思います。だから生活には、いろいろな節目があったほうが、メリハリが効いていいのだろうと思ったりします。

 節目というと、子どもの成長にも、いろいろな節目があります。年齢では七五三や成人を祝いますし、長生きでお祝いするのは60歳の還暦、70歳の古希に77歳の喜寿と続き、日本人の平均寿命である80歳は傘寿。これからは88歳の米寿や90歳の卒寿もめずらしくなくなるといわれています。私たちは子どもの発達の節目のことを「発達段階」(あるいは発達過程)という言葉で慣れ親しんでいますが、ここまで長寿になってくると、発達心理学も、どこに大きな節目があるのか、よくわからないそうです。

 ところが先日、興味深いデータをみました。それは生まれてすぐから7歳ぐらいまでの間の、脳の発達曲線です。縦軸は感性(感受性)です。そのなかで、生まれつき感受性が高いのは、見ることと、聞くことで2歳ぐらいから低下します。逆に低いところから1歳ぐらいまでに急激に高まるのは、シンボル、言語、応答的振る舞い、感情コントロールの4つ。とくにシンボルは、ゼロから急激に発達していきます。シンボルが伸びると「見立て遊び」ができるということです。1歳になるまえから、赤ちゃんは見たり聞いたりしたことを何かの物で、見立てることができるのです。また、感情コントロールがこんなに早い時期に準備されているということは、周りの身近な人など、世界と関わるときに、自分を制御する力が用意されていることに通じます。いわば感情の自律です。つまり人は他人と関わることが発達の前提になっているのです。育児休業を長くして家庭だけで育てるよりも、一日数時間でも集団のなかで過ごす方が、人の脳にはいいようです。

 さらに、この研究をした人は、この時期に大人が子どもに共感し、受容的に応答するなどふさわしい環境を用意してあげるかどうかが、のちの人生の健康に大きな影響を与えると分析しています。このデータはOECD(経済協力開発機構)が取り上げて、世界の乳幼児教育への財政的投資を促す政策へ影響を与えてきました。
 0歳から1歳の間の成長に、こんな「大きな節目」があることは、これまであまり知られていませんでした。しかも、この節目はあとあとに、大きく影響するのです。子ども園のような場所の役割を、政府はもっと大切にしてほしいなと、思ってなりません。



園だより11月号「巻頭言」より
2018/10/29

彼だけが知っている内面の真実を信じて

 さきほど三輪車に乗っていた3歳の彼は、私の目の前でお友達にぶつかってしまった。ペダルをこいでいた足を止めようと思えば止めることができた。でも彼は止めなかった。そこで彼は私に叱られた。彼はうつむいていた。何かをがまんしている。私は彼が納得していないとわかり、聞いてみた。私が「わざとやったんじゃないんだね」というと、うなずいて泣き出した。彼は私に<わかってもらえていない>気持ちを抱えて、うつむいていたのだろうか。「そうだったんだね、先生に怒られたのが嫌だったの」というと、こっくりうなずいた。彼のなかで何が起きていたのだろう。

 赤ちゃんは生後3か月ごろから、脳の皮質が活発に働きだすらしい。ただし皮質下の脳はお母さんの体内にいる頃から活動しているので、心臓音や母親の声や抑揚を聞き、羊水を飲んで味覚反応も起きている。甘さや苦さもすでに感じている。ヒトは頭が大きくなりすぎたので、直立歩行で小さくなった産道を通れる大きさのうちに、つまり未熟児で子どもは産まれ、1年近くも大人の世話を必要とする。

 大きくなった脳は、非常に多くの栄養を必要とし、身体のバランスも悪くなる。こんなに長い期間、自分だけでは食べ物を得ることができず、他者の協力なくしては生きていけない動物は、ほかにない。それだけのリスクを伴っても、余りある生存力を生み出したのは、その大きくなった脳の力だといわれている。いったい、大きくなった脳のおかげで、私たちの何が、ほかの動物にはない力なのだろう。よく言われるのは、共感力による人間同士の協力する力である。子育てを村中の人たちで支え合った。決して、生みの親だけに子育てをまかせなかった。そして食べ物や衣服などを分け合った。力を合わせて生きていくための知恵を共有していった。

 そういうことができるのは、他者と心を通わせたい、わかってもらいたい、私はこうなんだ、ぼくはこうなんだ、という気持ちの「受け止め合い」ができるからではないだろうか。理屈で合理的にコミュニケーションを図るのとは違う。「どうして・・するの」とか「そんなことしたら・・でしょ」という、合理的なしつけ言葉では、救われることのない、心の通い合いである。子育てにこれがあるとき、子どもはすくすくと真っ直ぐに育つ。これがあるから、子どもたちは、また心の底を<自ら>蹴って、浮かび上がることができる。なぜ三輪車が止まらなかったのか?それは今でもわからない。でも、そうなってしまった心の真実は、彼だけが知っている。それを信じて見守ろう。彼自身がきっと正しい道を選べるはずだから。自分の内面を省察し、ほんとうはこういう気持ちだったんだよと説明できるようになるのは、ずっと先だろう。でも生後3か月から、自分の意識を働かせるようになり、満3歳を過ぎるころには、「公正さ」も持ち合わせている。

 彼は泣き止んだ後、もう一度私と一緒に三輪車の交代を待った。そしてこう。「○○くんは、また一人占めしている」と。本当はいろんなことをずいぶんと分かっている。 


園だより10月号「巻頭言」より
2018/09/27

「ごめんね」が育つ絶妙な子どもの世界

 「ごめんね」。たった4文字でしかないこの言葉。そばでそれを聞いたU先生は感動したそうです。子ども同士が過ごしていると、いろんなことが起きます。楽しいことや面白いことは、子どもの大好物ですが、それとは反対に怒ったり、悲しくなったり、寂しくなったりすることもあります。そんなとき、それを乗り越えていく子どもの姿を目の当たりにすると、私たち保育者は本当にうれしくなるものです。それがHくんの「ごめんね」でした。

 Hくんは自分が言ったことで友達を怒らせてしまったのです。怒った友達とけんかになってしまい、Hくんは泣いてしまいます。お互いの気持ちがおさまっていく過程には、その子なりの心の成長がみえてきます。とくに、子ども同士が心を通わせていきながら、お互いに自分の気持ちに折り合いをつけていく微妙な心の動きは、一緒に生活している先生たちにとっては「ああ、こんな風になるまで育ってきたんだなあ」と、しみじみ感じ入ることが、ときどきあります。U先生はそれを「子どもの同士の絶妙な世界」といいました。この世界に、大人がずかずかとはっていってしまったら、子ども同士の世界が壊れてしまう、そういう気持ちになる瞬間を多くの先生たちは経験しています。

<親御さんにもわかってもらいたい、この素晴らしい子どもの世界を伝えたい・・>

 先生たちが見ている子どもの世界を知ると、私はそう思えてしかたありません。「ごめんね」の4文字を口にするまでに、そしてその言葉を、そのタイミングで受け取った友達がどんな気持ちになっていったのかを想像します。お互いに分が悪いこともやっているので、「わるかったなあ」という気持ちはもっていても、相手が許してくれそうでないと「屁理屈」をいってしまうものです。歩み寄りには自信を基礎にした勇気もいります。そこには大人からは見えない「心のドラマ」があります。

 子どもはまだ自分を客観視できませんし、口で言って親に伝わるものでもありません。子どもは親に受け止めてもらえることしか言いません。怒られると分かっていたら、なおさら自分から触れることもありません。
 こうした子ども同士の経験は、家庭でも地域でも体験できにくくなっています。子どもの心情の起伏は、想像以上に大きいものです。この起伏の激しさをひっくるめて、おおらかに見守るには専門性が必要です。つい、こうすべきであると従わせて身につけさせようとしてしまうかもしれません。しかし、それでは本物の心は育ちません。知識は教えられても人間力は自ら発芽するしかありません。子どもの存在を丸ごと信じ、真心をもって子どもと接することが見守るということの本当の意味でもあります。

 9月22日(土)長池小学校で道徳の公開授業と交流会がありました。悪かったなと思えること、そして他人にいわれなくても「ごめんね」と謝れること。この二つの間の開きを埋めるのは、子ども同士の関係ではないでしょうか。


園だより9月号「巻頭言」より
2018/08/29

最近のおすすめドラマから

 最近はまっているテレビドラマがあります。他人にも勧めています。一つはNHKのドラマ10「透明なゆりかご」です。これは産婦人科医院で看護師見習いをしている主人公17歳の内面の揺れ動きを軸に、出産をめぐる家族を描いたヒューマンドラマ。もう一つはフジテレビ「健康で文化的な最低限度の生活」です。こちらは役所の福祉事務所を舞台にケースワーカーたちが出会う家族の多様性を描いています。

 どちらもドラマの展開に引き込まれる面白さもありますが、どうしても仕事柄、これらのテーマは気になります。人の生存とウェルビーング、それを左右する大人の生き方、価値観、社会の仕組み。個々の事例はあくまでフィクションでありながら、実際にある話がベースになっているので、私たちも実に勉強になるのです。考えさせられる事例ばかりで、今の社会で実際に問題になっている、ある意味で最先端のことが取り上げられています。そして登場する主人公の身になりながら、「いったい、そのあとはどうなるんだろう」と、サスペンスドラマ風に引き込まれていくのです。

 「透明なゆりかご」の看護アルバイト青田アオイは17歳の高校生です。まだこどもっぽい、透明感のあるまっすぐな視線が、生まれようとする小さな命をみつめながら、登場する親や周りの大人の思いに自問自答を繰り返し、そして大切なことに気づいていく姿が感動的なのです。親や家族、医師、看護師たちのそれぞれの思いの「深さ」も描かれていて、いいドラマだなあと感心します。アオイ役を演じているのは、実際にまだ16歳の清原果那。演じているというよりも、実際に困り、悲しみ、怒り、喜んでいるようにみえる自然さとリアリティがあるのです。主人公と一緒にものの見方の幅広さを学ぶことができます。

 同じように、登場人物のキャラが誇張されながらも、実際に「いるよね、こんな人」という感じがでているのが「ケンカツ」の面々。駆け出しのケースワーカーを演じる吉岡里帆が、自分の経験にはなかった親子関係、家族の実際を目の当たりにしていきます。また井浦新、田中圭、川栄李奈、山田裕貴、遠藤憲一といったキャスティングが役柄にあっています。どちらのドラマも原作が漫画だということにも触れておきましょう。こんなに濃いテーマを、こんなにも多くの若者や青年、大人たちに伝えることができているコミックという媒体の力。ドラマや映画の原作はコミックからという例が多いのもわかります。このドラマやコミックは教材になります。私は先生たちにも勧めています。時間があればぜひご覧ください。


園だより8月号「巻頭言」より
2018/07/27

楽しかったことが絵になる意味

 楽しかったことを描きだすと、止まらないのが子どもたちの絵。「画用紙もう一枚、ちょうだい」。年長さんのお泊りの翌朝、キャンプファイヤーや川遊びが「楽しかった」といって描いている。キャンプファイヤーはみんな初めて。昨年のすいすいさんから、その話を聞いていたらしく、数日前からワクワクした気持ちで盛り上がっていた。職員が扮した「火の聖」が子どもたちの前に表れて、園庭の芝生の上に組み上げた薪に点火すると、目の前でメラメラと炎が燃え上がっていく。それを取り囲んで、園長のギター伴奏で「燃えろよ、燃えろ」や「キャンプだ、ホイ」を大きな声で歌った。

 子どもが描いた絵は、どの子もやはり、炎である。それを人の輪が丸く囲んでいる絵もある。子どもたちの頭の中には、炎の明るさ、熱さ、大きさ、揺れ動く影、顔を撫でていく風、歌声、みんなの笑顔・・・それらが交錯しているに違いない。川遊びの絵も同じだ。描かれているクレヨンの線は、何を表しているのかわからないような色の塊だったりするが、キャンプファイヤーと同じように、子どもたちのイメージの中では、体験した記憶が生き生きとよみがえっているのだろう。冷たい川の、水流の圧や、水しぶき、好きな先生にバシャバシャと水をかけて遊んだ面白さ、先生の声、つかまえようとしても、すばしっこく逃げる小魚、きれいな小石、そして潜ったら見えた水中の景色。

 ここに、子どもの絵と接するときの、心得がある。子どもの絵を見ただけで、こんなことが伝わってくるわけでは決してない。どんな体験をしたのかという全体像が分かっている人が見るから、その絵の背景を想像できて、面白い。だから、子どもの絵をみるときは、その子どもが再現したい「こと」や「もの」や「人」の方に着目してあげることを大切にしたい。うまくそれらしく描けているかどうかよりも。あるいは、その対象にどのくらい心動かされたのかということに着目したい。そのインパクトの大きさが、絵にしたい、もう一度目の前に再現したい、表したいという欲求となっている。子どもの絵とは、そういう気楽な気持ちで接したい。描きたいから描く。その動機は「あれ面白かったから、楽しかったから」でよい。誰かに見せるために描いているんじゃない。だから小さいうちは、みんなの前で「上手だね」を繰り返すのも、できるだけ避けたい。他人に見せたり、批評されることが前提になると、絵を描くことが恥ずかしくて嫌いになる子どもがいる。そうなると残念だ。

 絵を描くことも、ごっこ遊びも、根っこのところは同質の動機が働いている。心動かされたことを、もう一度味わいたい、再現したいという気持ち。そう考えたい。積み木で「ブッブー」と自動車を走らせて遊んでいるときに「上手だね」とは、決して言わない。なのに、なぜ画用紙に自動車の絵を描くと「上手だね」になるのだろう。子どもの模倣動機には差はないはずなのに。


園だより7月号「巻頭言」より
2018/06/29

相撲とサッカーと強いこと

「園長先生、勝ったんだよね。どうして(どうやって)勝ったの?」
 年長のSくんが、不思議そうに私に聞いてきました。あんな大きくて強いお相撲さんに、私が勝ったからです。不思議というよりも、すごいな、という子どもなりの「感嘆」のようです。右よつから回しをグイを引き上げ、土俵際に追い詰め、びくともしない長い長〜い数秒のあと、ふうーっと力が抜けるように土俵を寄り切った。というと、本当に私が勝ったかのように思われるかもしれませんが、もちろん、本物の力士に勝てるわけがありません。負けてもらったのです、打ち合わせ通り。でも子どもには「ね、園長先生、がんばったから、勝ったんだよ」というしかありませんでした。「へー」という感じで、私の目を見つめています。いやー、恥ずかしい。

 子どもの「勝負」には、真っ向勝負しかありません。子どもは「引き落とし」というものは思いつかないものです。ただ力いっぱい、押すことしか頭にはないし、そういうことだと信じて疑わない。その手ごたえによって「強さ」というものを感じるのでしょう。このようなシンプルな形で、「お相撲さんって、大きいな、強いな、すごいな」という「偉大さ」を経験したようです。このような経験は、今後、チャレンジする勇気や自分の気持ちとの対話、場合によっては感謝する心や畏敬の念にまで育っていく心の糧となっていくかもしれません。

 それに引き換え、今朝29日は、すっきりしない気分の方も多かろう、と想像します。サッカーのワールドカップで決勝トーナメント進出は手にしたものの、試合終了前、負けているのにポーランドに1点を取りに行かない試合を演じた日本代表。もし他の試合結果を知ることができないなら、最後のロスタイムまで必死で点を取りに行ったはず。そんな試合を観たかった。そう思う方も多いことでしょう。リーグ戦という点数制、リアルタイムで情報が得られる時代では仕方のないことかもしれません。でも勝敗よりも「勝ち方」に誇りをもつサッカー大国なら決して見せない姿かもしれません。たとえば日本なら、千秋楽の優勝決定戦で横綱が格下相手に引き落としを見せたら、座布団が飛ぶようなものでしょうから。

 何事かに挑むとき、人は「見られること」も意識しながら、生きているんだということに気づきます。ただ、目的の何かを手に入れられればいいというものではなく、人とのつながりの中で文化的なよりよさを意識しています。何を優先するか、何に対して本気になるのか。何にリスクをかけてチャレンジしているのか、その人の美学や哲学が垣間見られるから面白いですね。そして子どものまっすぐな心は、初々しくも、すがすがしいと思い至るのでした。


園だより6月号「巻頭言」より
2018/05/29

対立が起きたとき、私たちは

 アメフトのニュースを見ていたら、以前、糸井重里さんが、文化人類学者で伝統的社会のあり方を研究しているジャレド・ダイヤモンドさんと対談したブログを思い出しました。次のような話でした。タイトルは「対立が起きたとき、私たちは」というものです。ダイヤモンドさんは「ニューギニアなどの伝統的な社会と、日本やアメリカといった先進国のあり方では全く違うんです」といいます。どう違うかというと伝統的社会では社会の規模が小さいので、一生を数百人以下のコミュニティで暮らすことになる。すると「対立」の相手は、たいてい、もともと知っていたり親しかったり関わりがある。そんな社会で対立が発生すると、大切なことは「関係をどう修復するか」だというのです。

 一方、日本やアメリカなどの先進国の社会では「対立」が起こったときに大切なのは「どちらが正しいか」になる。日本やアメリカで交通事故があったら、事故の相手は基本的に初めて会った知らない相手なので、その後の関係もまずない。だから相手が怒ろうが泣こうが関係ない。どちらが正しいかを基準に解決しようとする。警察や裁判所の考え方も同じ考えに立っている。

 ところが伝統的な社会では「対立」が起きると、「お互いの感情をどう処理し、どう落ち着かせるか」に重きをおく、そうです。対談の中では、ニューギニアでダイヤモンドさんが実際に聞いた実話が紹介されています。詳しくはそれを読んでいただきたいのですが、かいつまんで要約すると、ダイヤモンドさんの友人が経営している会社の社員が交通事故で10歳の男の子をひいて亡くしてしまう。すると翌日に亡くなった子どもの父親が会社に来てこういうのです。「おたくの社員が事故を起こし、うちの子どもが亡くなった。わざとやったことではないのはわかります。けれど現在、私たち家族は非常につらい気持ちの中で暮らしています。4日後に子どものことを偲んで昼食会を開こうと思っています。そこへ来ていただけないでしょうか。またその昼食会の食べ物を出していただけないでしょうか」

 昼食会では一人ずつがスピーチをして、その社員にも順番が回ってきます。彼は声を絞り出すように「自分にも子どもがいます」と、やっと話し出します。「今日は食べ物を持ってきましたが、こんなものはお子さんの命に比べたらほとんど価値のないものだと思います」。集まった人々は子どものことを思い、失った悲しみの感情を共有します。そうして人と人の本質的な和解が成立していくのです。気持ちを共感しあうことは、どんな状況で生きていても、人には必要なことなんだ、と思います。そして子どもや青年の方が、どうもそれが上手な気がしてなりません。


園だより5月号「巻頭言」より
2018/04/26

おもちゃ箱のこども園

 昨日4月25日、2階の幼児クラスの遊びのゾーンの模様替えをしました。午前10時ごろに家具を動かし始めてから終わるまで1時間もかからず、目指していた配置があっという間にできました。そんなに早くできたのには、実は秘密があります。それは実物の30分の1に縮小した模型を使って、レイアウトを決めていたからです。模型は副園長の筒井先生が作ったもので、計画したレイアウトと寸分たがわず、家具が模型通りにピタリと収まったので感動しました。

 建築家はこれと同じことをします。設計図どおりに実物を何分の1かに縮小した建築模型をつくります。20年以上前に作られた、せいがの森保育園の建築模型もあります。長池公園の長池自然館の中には、20年前の「ライブ長池」の地域模型が展示されていて、当時の街並みと計画が一目でわかります。あの地域模型を眺めていると、この20年の間、まだ何もなかった地域にどんどん住宅が建ち、人々が移り住み、ぽんぽこ祭りの前夜祭がせいがの森保育園の夕涼み会だったことや、団地組合がつながっていった町の歴史を思い起こしてしまいます。地域模型を作った人たちは、今の私たちの生活を想像していたとしたら、この風景をどういう風に見ているのでしょうね。ピタリとハマった、と思っているのでしょうか。

 5月12日の親子遠足は、園からスタートして別所公園まで歩きます。このライブ長池という地域を「人体」に例えるなら、まさしく背骨、バックボーンとなるところを歩きます。長池からあふれ出る「せせらぎ」が、別所公園の先に流れ注がれていく人口緑道が「せせらぎ通り」です。実は、この「せせらぎ通り」が園舎内にあるのをご存知ですか。何を隠そう、中央階段がそれです。だから色がせせらぎの色なのです。そして2階のブリッジが「長池見附橋」。地域の象徴的モチーフが中央エントランスに再現されているのです。

 昨日、面白いことに気づきました。模様替えした直後の子どもたちにとって、最も混雑したコーナーは「ごっこ遊び」と「ブロック遊び」だったのです。子どもたちの遊びの本質には、やっぱり模倣があるんですね。もっというと「人間の本性は模倣である」(R・シュタイナー)と、私にも思えて仕方ありません。まねっこ遊び、つもり遊び、レゴブロック、アイドルごっこ。形は違えど、大人も子どもも気に入ったものを再現すること(表象=リプレゼンテーション)が大好きなんですね。小説も映画も絵画もぜ〜んぶ人間の文化は表象文化ですが、模様替えが楽しいのも納得できる。なんだか園舎全体がおもちゃ箱のように思えてきました。