【金田我天 プロフィール】
小学校の元教師でこども園園長暦は20年。出版社で絵本の編集にも長く携わってきた。
現在、園長を続ける傍ら保母さんや保父さんになる学生たちの専門学校で保育原理を、看護学校で教育学の教鞭をとっている。
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「 オーエン(1771〜1858) 」
イギリスの社会主義運動の開拓者。紡績工場を経営していたが、1816年、その労働者の子弟の福祉と教育のために「性格形成新学院」と、その一部として「幼児学校」を開設。生育や環境が悪いと正しい性格を欠くことになるので、経済的、社会的および教育的な環境を改善することを要するとした。
彼の幼児学校の教師には、もと職工のブキャナンと、もと紡績女工のヤングがあたった。ブキャナンはその後、ロンドンの幼児学校で20年間校長を勤め、「生来子ども好き」「子どものように純粋かつ無邪気」とたたえられた。教師とは、学歴や保育技術ではなく、そういうものなのだろう。
「 倉橋惣三(1882〜1956) 」
幼児が自ら生活できるようにする、子ども中心の保育を唱えた。その具体例として「誘導保育論」「誘導カリキュラム論」を体系化している。これらは、幼児の生活はあそびにあるとし、その生活が発展するように誘導することを主眼にしたものである。
彼は、「急速な社会、経済の進展により家庭教育機能が低下してきたので幼稚園が家庭教育を補充する使命として、保育時間の延長と児童相談所的な役割をもつこと」が必要であると、すでに昭和初期に提唱している。彼の提唱は、平成の今になってまた注目されている。
「 クループスカヤ(1869〜1939)」
ロシアの教育家。社会主義社会の建設過程で、実践を通して理論が深められ、確立された「集団主義保育」を提唱。また、その内容で具体的なあり方(大人が干渉しないあそび、理想的ながん具と児童図書、芸術教育のあり方、体罰の否定)を示した。
レーニンと流刑地で結婚し、彼と革命運動をした彼女は、革命で社会を変えることはできても、大人の干渉や体罰で子どもは変えられないと思ったらしい。教育は、革命以上に難しいものなのかもしれない。
「 フレーベル(1782〜1852)」
ドイツの教育思想家、教育実践家。また幼稚園と保母養成所の創始者でもある。1839年に「遊戯および作業教育所」を開設。翌年、「一般ドイツ幼稚園」と改めた。幼稚園を庭に、幼児を若い植物、植物の世話をする園丁(庭師)を教師や母に例えた。
今で言う「フリーター」のように、若いころ学校や職を転々とした彼は、そのことでかえって自由主義やロマンティックな革新的気風を形作ったといわれる。子どもがいろいろなことをやろうとすることは、案外、将来とても役立つことの基礎を身につけているのかもしれない。
「 ペスタロッチ(1746〜1827)」
スイスの世界的教育思想家。神があらゆる子どもに等しく与えた諸能力を、子ども本来のしぜんな歩みにしたがって発達させることを目ざした。そして、どの社会階層の子どもにも、このしぜんな発達を可能にし、社会変革の主体として育成するために、子どもの感覚や生活環境の中での直接経験(直観教育)を重んじた。
ドイツのフレーベルは彼に師事し、イギリスのオーエンは彼を訪ねて、その帰国後に彼の主義による教育を採用した。また、日本の倉橋惣三も彼の教育思想を吸収している。彼の思想は、あっという間に全世界に広がっていった。
「 モンテッソーリ 」
イタリア初の女性医学博士。1906年スラム改良事業で「子どもの家」を創設。精神発達のうえから幼児期を重視し、子ども本来の自発的生命力と敏感な吸収力を生かした。心身のしぜんで、正常な発達による自立に向けての自由を与えようとした。
イタリアの1,000リラ(110円くらい)の表に彼女の肖像が使われている(裏は子どもが学習している絵)ので、イタリアに旅行したときの保育関係者へのおみやげは、手ごろな値段と格調の高さからこの紙幣に限る。
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